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棋史・中国

中国連珠の三十年——京都五子棋隊から世界チャンピオンまで

1990年に那威らが京都五子棋隊を結成してから、2018年に中国棋院が国際連珠連盟の代表を引き継ぐまで。中国連珠の組織づくり、普及、国際大会での歩みを振り返ります。

盤上の一石。1990年、十数人の愛好家が京都五子棋隊を結成し、中国連珠に独自の組織が生まれました。
盤上の一石。1990年、十数人の愛好家が京都五子棋隊を結成し、中国連珠に独自の組織が生まれました。

1990年、那威と十数人の愛好家が京都五子棋隊を結成しました。5年後、那威は単身タリンの大会に出場し、国際オープン戦で28位となりました。国際連珠大会に出場した初の中国人選手です。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。その後、中国の棋士は世界チャンピオンとなり、中国棋院も国際連珠連盟における代表を引き継ぎました。愛好家による対局の自主運営から国際大会への出場、ルールの文書化、代表の交代まで、性格の異なる活動がこの歩みをつないでいます。

1990年:京都五子棋隊

京都五子棋隊は愛好家による民間組織で、中国初の近代的な五目並べ専門の民間組織でもあります。発起人たちが自ら仲間を集め、対局を企画しました。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。このチームは、それまで個々に打っていた愛好家に、比較的安定した交流の場をもたらしました。対局は引き続き仲間同士で取り決め、組織も実際の対局や研究を重ねる中で形づくられていきました。

1995〜1996年:タリンとテレビ講座

1995年7月、那威は単身エストニアのタリンへ渡り、第4回世界連珠選手権の国際オープン戦(BT)に出場して28位となりました。中国人選手が国際連珠大会に姿を見せたのは初めてです。励精連珠教室・中国の五目並べの発展概況に記録されています。この遠征で、中国の棋士は国際大会の盤上に石を置きました。当時の経験を記録するうえでは、順位だけでなく、出場した組も欠かせません。

1996年、中国の五目並べ民間組織であるRIFCHINAが国際連珠連盟に加盟しました。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。同年、CCTV-5では那威と彭建国が講師を務める連珠・五目並べのテレビ講座が始まりました。央視網・五目並べ:東西文化の交流点が伝えています。前者は民間組織と国際連盟のつながりを築き、後者は棋会に足を運ばない視聴者にも、解説を通じて盤上の展開に触れる機会を届けました。

1999年:北京大会と競技区分

1999年7月、第6回世界連珠選手権が北京で開かれ、11カ国から70人を超える選手が参加しました。励精連珠教室・中国の五目並べの発展概況に記録されています。大会には決勝組と国際オープン戦が設けられました。開催地の北京には各国の棋士が集まり、中国の選手も地元で異なる組の国際大会に出場しました。この年の成績を見る際は、まず競技区分を確かめることが大切です。

北京大会では、中国の選手が3つの異なる組で成績を残しました。張進宇は決勝組(A組)で9位、白涛は国際オープン戦(BT)で優勝し、ジュニア選手の陸瑶は女子組で4位となりました。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。A組とBTは別の競技区分であり、白涛の優勝はBTでの成績です。それぞれを区別して記録すれば、地元選手の活躍を示しつつ、異なる組の順位を混同せずに済みます。

2001〜2003年:通信戦と2つの文書

2001年と2002年、張進宇は世界連珠通信選手権で2年連続の準優勝を果たしました。2003年には陳偉が同大会で優勝しています。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。通信戦は郵便やインターネットを介して行われ、選手が会場で対局する世界連珠選手権とは別の大会です。これらの準優勝と優勝は通信戦の成績であり、会場で行われる個人選手権の順位とは分けて捉える必要があります。

2003年8月、中国棋院が編纂を主導した『中国五目並べ競技規則』が初めて刊行されました。同年12月21日には、中国棋院が『中国五目並べ段級位制度』の試行版を公表しています。中国連珠網・『中国五目並べ競技規則』改訂についてに記録されています。競技規則は対局方法と判定を定め、段級位制度は棋士の等級に文書上の根拠を与えるもので、それぞれ扱う問題が異なります。連珠では15路盤を使います。黒が活三(かつさん)を2つ同時につくる三三、四四、または長連を打つと負けになり、白が長連を打つと勝ちになります。先手の有利を調整するため、初期の世界連珠選手権では「三手目交換・五手目二択」のRIFルールも採用されていました。中国連珠網・中国連珠(五目並べ)競技規則に記されています。

静かな盤上に石が一つだけ置かれています
2003年の競技規則と段級位制度は、対局と棋士の等級をそれぞれ文書に定めました。
ルールが文書になり、対局に共通の基準が生まれました

2007年:個人世界チャンピオンの誕生

世界連珠選手権は1989年から2年ごとに開催されています。2007年8月15日、呉鏑が第10回大会の決勝組で優勝し、会場で行われるこの個人世界選手権で優勝した初の中国人棋士となりました。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。決勝組という区分は重要です。優勝した競技区分を明確にし、先の北京大会における国際オープン戦の成績との違いを示しています。

2010〜2015年:団体戦と北京での開催

2010年、中国は世界連珠団体選手権で初優勝しました。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。団体戦はチームの成績であり、個人選手権の優勝とは区別されます。両大会を分けてたどることで、中国の棋士が国際舞台で残した多様な成績が見えてきます。

2011年には曹冬が第12回世界連珠選手権で優勝し、2012年には世界連珠団体選手権が北京で開催されました。2015年には祁観が第14回世界連珠選手権で優勝しています。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。北京が開催したのは団体戦で、曹冬と祁観の優勝は会場で行われた個人戦の成績です。時期は近くても、それぞれの大会名と競技区分を保って記録する必要があります。

2018年:連盟代表の交代

2018年、中国は世界連珠団体選手権で2度目の優勝を果たしました。2010年の初優勝から8年後のことです。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。同じ年に行われた連盟代表の交代は、大会とは別の組織上の出来事です。大会の結果は棋士とチームの活躍を、代表の変更は国際連盟で中国を代表する組織の変化を示します。両者を一つの成果として扱うことはできません。

盤上で勝敗が決まる一方、連盟の代表も引き継がれました

2018年6月、中国棋院はRIFCHINAに代わり、中華人民共和国の代表として国際連珠連盟に正式に加盟しました。ウィキペディア「連珠」項目・中国における連珠の発展に記録されています。愛好家が民間の棋隊を立ち上げたところから、中国棋院が連盟代表を引き継ぐまで、組織の歩みは続いてきました。この交代によって変わったのは、国際連盟における代表です。盤上での勝敗とも関わりながら、それぞれが異なる記録として残っています。


読み終えたら、WUZIQI で一局どうぞ。